説教『サレプタで起こったこと』牧師 若月健悟

2020年8月2日(日)平和主日・聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

《聖書》列王記上17章8~16節

【はじめに】

 シドンのサレプタ、聞きなれない町の名前ですが、今朝は、このサレプタで起こった奇跡のお話しです。

 サレプタは、聖書の付録『聖書地図』をご覧になりますと、5番目「南北王国時代」に、その位置が記載されています。このことから良く知られた町であることが分かります。地中海の上の方にあります。フェニキアの都市の1つにシドンがありますが、サレプタはシドン地方に属する町でした。サレプタは、その語源に「染める」という意味があり、染色工業とガラス製造の町として発展しました。この町がクリスチャンに知られているのは、イエスさまがこの町で起こった奇跡をたとえ話としてお話しされたことと深くかかわっています。

 ルカによる福音書4章25~26節によりますとこうです。

 イエスさまは、イスラエルの不信仰をたとえ話しとして話されました。イエスさまよりも8百年以上も前に活躍した預言者エリヤの時代のことです。パレスチナに3年6か月に及ぶ大飢饉が起こりますが、その中で、預言者エリヤはイスラエルの民を飛び越えて、遠く離れた異邦人の町サレプタに住むやもめだけを食糧危機から救ったのです。これは、神さまの御心であったと、イエスさまは話されました。イスラエルの民の不信仰を痛烈に批判されたのです。このことから、サレプタのやもめの養いの奇跡は、教会の中でも広く知られるようになっていきました。

 では、サレプタで起こった奇跡とはどのようなことなのでしょうか。

【サレプタで起こった奇跡】

 3年6か月に及ぶパレスチナの大飢饉は、イスラエルの民ばかりではなく、広く地中海沿岸の町にも及びました。貧しい人々は、とても悲惨な状況に追いやられました。

 神さまは預言者エリヤに「シドンのサレプタに行き、そこに住め」と命じられたのです。1人のやもめに養われるから大丈夫、と神さまは約束されたのです。異邦人の町サレプタの入り口で薪(たきぎ)を拾う一人のやもめに出会うのです。エリヤはやもめに水と食べ物を求めます。やもめが言うのです。「壺の中に一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油があるだけで、二本の薪で食べ物を作り、息子と食べれば、あとは死ぬのを待つばかりです。」

 何とも悲痛な言葉です。エリヤは大変な状況であることをよく承知していました。それでも、その最後の食べ物を少しわたしに分けて欲しいと告げるのです。

 わたしがやもめの立場であればどうするか。きっとエリヤに食べさせる前に息子と食べてしまって、〝すみません。もうありません〟と言い訳するだろうと思います。目先のことしか見ていないからです。

 ですが、やもめは違っていました。初めて会ったエリヤが告げた言葉を主なる神さまの御言葉と心から信じたのです。

 「主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」

 どうでしょうか。皆さんはエリヤの言葉が信じられますか。「これがなくなれば、あとは死ぬだけです」と答えたやもめです。ですが、やもめは、エリヤの言葉に主なる神さまの御言葉を聞いたのです。

 「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした」のです。

 同じ列王記上17章19節は、やもめの住まいに2階があったと告げます。つまり、やもめの家は元々裕福な家庭であり、3年6か月に及ぶ大飢饉に耐えることができたのです。そのやもめが夫に先立たれ、幼い息子と二人きりの生活になって、この大飢饉に見舞われたのです。頼りとする食料も資産も底をついたとなれば、もはや生きる術は何もなく、追い詰められた状況であったことが分かります。

 その最後の食べ物を分けてくださいと告げ、主なる神さまがあなたがた母子を養うと約束したエリヤの言葉を、やもめはためらうことなく受け入れたのです。すごい覚悟です。

 そこで奇跡が起こります。壺の粉と瓶の油は尽きることはありませんでした。主なる神さまの御言葉通りとなったのです。

【奇跡から】

 預言者エリヤは、イスラエルが南と北に分かれていた時代、北イスラエル王国に生まれました。その時代、北イスラエル王国は、主なる神さまから離れ、不信仰の極みにあったのです。北イスラエルのアハブ王は、妻イゼベルをフェニキアのシドン地方から迎えました。イゼベルは自分の信じる神々を礼拝するために、祭司・預言者の大集団を北イスラエルに連れてきまして、あっという間に北イスラエルを異教化してしまったのです。

 これでお分かりのように、エリヤが、北イスラエル王国で活躍できなかったのは、主なる神さまを伝えようとすると、常に命の危険にさらされることになったからです。それで、神さまはエリヤの信仰を鍛え上げ、いかなるこの世の力にもたった1人で立ち向かえるようにと厳しく訓練されたのです。

 エリヤは大飢饉の中で烏に養われて生活をしました(列王記上17章1~7節)。エリヤが最初に体験した食べ物の奇跡です。その次に、やもめの食べ物の奇跡が起こったのです。主なる神さまは奇跡を通して、御自身が生きて働かれる神であることをエリヤに証し、主なる神の生けるしるしとしたのです。

 今ほど、奇跡が起こって欲しいと熱望する時代はないかもしれません。預言者エリヤのような人物が突如現れ、いともたやすく奇跡を起こし、人を助け救ってくださるのです。それなら、皆がこぞって主なる神さまを信じて礼拝し、その御名を賛美することだろうと思います。

 ですが、本当にそうなのだろうかと考えさせらるのです。食べ物や癒しの奇跡は一時のことです。わたしたちが苦しみの中から救い出されますと、その苦しみがなかったかのように、神さまのことさえ忘れてしまうのです。このような奇跡では人を本当には救えないのです。

 預言者エリヤは、この後、病気で死んだ息子を復活させる奇跡を行います。さらに、水分をったぷり吸い込んだ薪に火をつける奇跡など、主なる神さまの御業を次々と行います。ですが、その奇跡を認めようとしない強力な人たちが現れるのです。アハブ王と妻イゼベルです。エリヤの命は風前の灯火となるのです。

 人は学ぼうとする姿勢がない限り奇跡からは何も学べないのです。ましてや、自分の罪を認めて悔い改めることさえ起らないのです。怒りと憎しみを増すだけなのです。イエスさまの十字架の死がそれをあますことなく証ししています。

【やもめの信仰】

 では、人は皆奇跡から何も学ばないのかといいますと、まだ希望があるのです。全てを失っても、なお、預言者エリヤの言葉を主なる神さまの御言葉として、疑わずに受け入れたやもめの信仰です。最後の粉、最後の油、薪2本で小さなパン菓子を作って、3人で分けて食べる信仰の奇跡です。

 自分は食べなくとも、我が子にだけは食べさせたいと願うやもめであったろうと思います。それを見ず知らずの旅人エリヤに分かち合うことの中に、小さな奇跡を見るのです。危機の中での信仰という、この小さな奇跡は、ことが起こってから信じるということではないのです。エリヤの言葉の中に、主なる神さまの御言葉を聞くのです。

 「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした」とあります。既に、やもめの心には、小さな奇跡が起こっていたのです。〝信じられないけど信じてみたい、信じられないけどこれ以上失うものがないのであれば、いっそのこと信じてみよう〟と、心開く奇跡です。

 現実を見れば、恐れと不安だけがわたしたちの心を支配しているように感じられます。ですが、わたしたちは、預言者エリヤの言葉を主なる神さまの御言葉と信じたやもめの信仰に出会うのです。わたしたちは、その信仰を受け継いでいるのです。神の御子イエスさまの十字架と復活を信じる信仰として、恐れと不安の中に、一歩先の希望を見ているのです。それは、不安と恐れの現実の中に、御子イエスさまを通して証しされた十字架と復活によるもう一つの信仰の現実を見ていることです。

 信じても何も変わらないと思える現実の中に、主を畏れ敬い、御言葉の約束の真実を見つめながら歩み続けてまいりましょう。

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