説教『一と百五十三』牧師 若月健悟

2020年4月26日(日)復活節第3主日礼拝説教要旨

《聖書》ヨハネによる福音書21章1~14節

【はじめに】

 聖書には、いろいろな種類の数字が出てまいります。ヨハネによる福音書を読みますと、18種類の数字が用いられています。

 1、2、3、4、5、8、10、12、15、25、30、38、46、50、153、2百、3百、5千。

合計18種類の数字です。

 その中から、1と153、この2つの数字が示す特別な意味をご一緒に考えてみたいと思います。

【「一」について】

 初めに「一」という数です。ヨハネによる福音書では、「一」はその大半が「一人」という意味で用いられています。その中で特別な意味を持つ「一」という数があります。それは「一粒の麦」という御言葉です。ヨハネによる福音書12章24節です。一か月前の3月22日の礼拝で清野神学生が『一粒の麦、死なば』という題で奨励を担当しました。記憶に新しいかと思います。

 「一粒の麦」は、イエスさま御自身が証しされた十字架のことです。ヨハネによる福音書12章は、過越祭に集まった大勢の人々に告げられたイエスさまの御言葉を証ししますが、その翌日に、イエスさまは十字架で最期を遂げられることになるのです。

 「一粒の麦」のたとえ話を通して、イエスさまは十字架の死こそ、全ての罪人のために執り成す贖罪の死であることを宣言されたのです。一粒の麦から、たくさんの麦が収穫されるように、イエスさまの十字架は、全世界の人の罪をイエスさま御自身が引き受け、父なる神さまの罪の赦しを得て、全ての人に永遠の命を約束する現実なのです。

 「一」という数は、永遠に変わることのない、十字架上のイエスさまの命を証ししているのです。

 前に、このようなお話をさせていただきました。それは、一人の物理学者の証しです。

 臨終の床で、病床洗礼を受けられ、それから3日後に召天されました。ご遺体がご自宅に運ばれたとき、部屋の壁に飾られた、模造紙の大きさの額を見ました。そこには、びっしりと数式が書かれていました。30代の時に、ピタゴラスの定理の一般的証明を完成された方ですが、その証明を書き記したものでした。証明が終わったあと、少し行間を開けてこのように書かれていました。

 「1-1=1

  これは間違いであるが、美しい。」

 何のことか、ご婦人に伺っても、〝分かりません〟とのことでした。じっと見つめていましたら、あることに思い至ったのです。これは純粋な数理の証明とは異なる、もう1つの心の世界であることです。信仰の世界のことです。数理では証明できない、心の世界、目に見えない神さまの世界をご覧になっていたのではないかと思われたのです。

 1から1を引く、つまり、イエスさまからただ一つの命を奪うことです。その結果、1となるのです。つまり新たな命になる、ということです。イエスさまを十字架にかける、すると復活の命となる定理です。そう思えたとき、この物理学者の心には、若い日に信仰が芽生えていたに気づかされたのです。病床洗礼は神さまの御心であったと確信しました。最後に書かれた「これは間違いであるが、美しい」との言葉は、最初の信仰告白であったと思い至り、とても感動しました。

【「百五十三」について】

 では、百五十三はどうでしょうか。さきほど拝読していただいた御言葉の中に、網にかかった魚の数が百五十三とありました。この数字には「預言と実現」という関係が秘められているのです。預言は、旧約聖書の御言葉です。その実現は、イエスさまによる奇跡の御業です。

 百五十三にかかわる旧約聖書の御言葉は、ただ一度だけ用いられています。エゼキエル書47章10節です。ここでは地名として用いられています。「エン・エグライム」です。エン・エグライムは、死海のほとりにあります。死海の北西にある町で、そのすぐ北側には、死海写本が発見されたクムラン洞穴があります。エン・エグライムは、既に預言者エゼキエルによりまして、世の終わりに「命の水」があふれ出る場所と信じられていました。世の終わりが近いと信じた人々は、クムランに集まり、共同生活を送りました。その人々が書き写した旧約聖書が「死海写本」です。現存する最も古い聖書と言われています。最も古い写本ですと、今から2千2百年も前に書かれたものです。

 つまり、「エン・エグライム」はエゼキエルの預言によって、「命の水」が流れ出て罪を清め、生きた命に復活する場所として伝えられていたのです。このエン・エグライムという地名のアルファベットを数字に当てはめると「百五十三」になるのです。

 ヨハネによる福音書7章37~39節に、「生きた水の流れ」というイエスさまの説教があります。「生きた水」の背景にあるのが、エゼキエル書47章の「命の水」の物語なのです。このことから理解できますように、百五十三はイエスさまの復活の命を証しするのです。

 「一粒の麦」がイエスさまの十字架を意味し、さらにガリラヤ湖で網にかかった魚の数が「百五十三匹」であったことは、イエスさまの復活の命の真実を物語っていることに思い至るのです。

【復活の命の真実に触れて】

 ペトロをはじめ7人のお弟子さんたちが、復活されたイエスさまにお会いしたのは、3度目のことです。つまり、お弟子さんたちは、故郷であるガリラヤに帰りまして、元の職業である漁師の仕事に戻ったのです。それは、生活を立て直してガリラヤ伝道に励むためです。まだ全生活を伝道のために献げ切れずにいたのです。

 復活のイエスさまは、その7人のお弟子さんたちを励ますのです。十字架の死が人生の終わりではないこと、その終わりと思えたところから復活の命が始まることを、網にかかった魚を数えさせて証しされたのです。罪が赦されて生きることは、復活の命を信じて生きることです。イエスさまの復活はこの真実を伝えているのです。それも3度、お弟子さんたちに御自身を現わされたのです。聖書で3度というのは、何度も何度もという繰り返しの意味と、それが完全であるという意味になります。お弟子さんたちが7人であるというのも、7という数字が聖なる完全数を意味することから、ガリラヤでの新たな伝道の始まりを意味したのです。ペトロをはじめとする7人のお弟子さんたちがようやく、イエスさまの復活の命の意味を心に深く留め、心から悔い改めて信じたことを証しするのです。

 復活の命を信じる信仰は、もうこれまでと断念し、絶望したところから新たに始まる希望への道しるべなのです。お弟子さんの誰もが、自分で自分の生活を立て直してからでないと、先に進めなかったのです。信仰だけでは、とても生活できないと、本気で思えたのです。ですから、伝道よりも生活するための基盤を作ることが優先したのです。それでも、ガリラヤ湖で漁師をする生活が伝道の始まりとなったのです。復活の主イエスさまによって、そのように導かれたのです。

 イエスさまは、お弟子さんたちに、復活信仰は罪の赦しにあり、赦されて生きる真実に立ち帰ることを教え諭されたのです。百五十三匹の魚が網にかかったことは、当時の漁師さんたちにとって、ありえないことでした。まさに奇跡だったのです。イエスさまの御言葉を信じて実現したのです。その真実に触れて、ペトロは、裸同然で湖に飛び込みました。それは、心からの悔い改めを意味しました。既に、罪赦されて救われていたはずでした。ですが、ようやく裸の心になれたのです。浜辺に上がり、裸同然で魚を数えていたペトロの心は、後悔の涙ではなく、イエスさまの愛に満たされて涙を流すのでした。

 誰一人、イエスさまに問うことなく、パンと魚を分け与えられるままに食べました。文字通り〝くいあらためた(食い改めた)〟のです。

「人は心に信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

(ローマの信徒への手紙10章10節)

 7人のお弟子さんたちは、心に信じて義とされました。その次に始まる伝道の日々は、「口で公に言い表して」証しし、十字架のイエスさまこそが復活の主キリストである、と宣べ伝えるのです。復活の命の真実に触れたお弟子さんたちは、宣べ伝えずにおられないほど心満たされたのです。

「一と百五十三」それは十字架と復活の主イエス・キリストを証しする御言葉です。コロナに負けず、この厳しい時代だからこそ信じて救いの確かさを証しし、宣べ伝えてまいりましょう。

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