説教『信じたい』牧師 若月健悟

2020年3月8日(日)受難節第2主日礼拝説教要旨

<聖書>ヨハネによる福音書9章35~41節

【はじめに】

 感染症拡散が不安を募らせていますが、鳥のさえずりや春の花々を見ますと、ホッとしたものを感じます。心から安らげる穏やかな春の訪れを待ちたいと思います。

【事の発端】

 さて、わたしたちは教会暦では受難節(レント)を過ごしています。イエスさまが十字架をめざして歩んでおられる時です。その中で、ヨハネによる福音書9章は、イエスさまを「主」と告白する大切な信仰告白の物語です。どのように信仰告白がなされていくのか、4つの告白を通して見てまいりましょう。

 事の発端は、イエスさまとお弟子さんたちがユダヤ人たちの迫害を逃れて、神殿の境内を出て大通りを歩いていることから始まります。

 目の不自由な若者が道端で物乞いをしていまして、その姿を見た、お弟子さんの1人がイエスさまに尋ねるのです。

 「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)

 なかなかその人の身になって考えるというのは難しいことです。お弟子さんたちの心には、かわいそうな人と映ったのでしょう。昔から言い伝えられたことを鵜呑みにして、その人の不幸は、神さまの裁きと疑うことはなかったのです。本人の罪か、それとも親の罪がその子の不幸を招いたのか、と問うのです。まさに、人の不幸は、お弟子さんたちにとって、他人事でしかなかったのです。お弟子さんたちの姿がわたしたちの本心を映し出しているように思えてきます。

 お弟子さんたちの問いかけにイエスさまはお答えになります(3節)。

 「本人の罪でも、両親の罪でもない。神の業がこの人に現れるためである。」

【奇跡と最初の告白】

 イエスさまは、その御言葉の通り、神さまの御業を現すために、若者の目を見えるように奇跡を行われます。イエスさまが神の御子であることの証しのためであり、それによって罪人の罪が赦されて救われるためです。

 人々は、この奇跡を目撃しまして、奇跡を行った人の所在について尋ねるのです。若者は、「イエス」という名であることは知っていましたが、その人の正体を知らず、どこにいるのかさえ知りませんでした。ただ承知していたのは、「イエス」という方によって、見えなかったのに今見えているという現実だけです。

 ですが、若者にとって、「イエス」という名を知ったことは、幸いでした。奇跡は、「イエス」という御方が告げられた御言葉を信じて行動したことから生まれたからです。信じて、御言葉のままに聞き従わなかったならば、何も起こらなかったのです。若者の最初の告白は、その方の正体を知らずに「イエス」と告白したことにあります。

【第二の告白】

 では、2番目の告白はどのようになされるのでしょうか。

若者の身に起こった奇跡を巡って、町中が騒然とします。律法の掟に精通しているファリサイ派の人々が、噂に上った若者に事情を確かめようと、若者に問いかけるのです。

「いったい、お前はあの人をどのように思うのか。」(17節)

 ファリサイ派の人々は、イエスさまを何とかしてとらえて裁判にかけ、葬り去ろうとそのチャンスを狙っていたのです。イエスさまのお弟子さんたちが問うたように、因果応報として理解していたのです。

 その結果、イエスさまの行動は、国の要である律法の掟と先祖からの言い伝えを平気で破り、民衆に混乱を引き起こし、国を危機的な状況に招きかねないと思い込んだのです。イエスさまのような存在は、国の指導者への不満を募らせ、暴動の引き金になるからです。民衆の暴動は、ローマ帝国の支配の下では、ユダヤの指導者が最も恐れたことでした。

 イエスさまを捕える口実は明確にありました。奇跡を起こした日は、「安息日」であったことです。モーセの十戒の中でも最も厳しく守られたきた「安息日」は、一切の労働が禁じられていました。目の治療は、労働と見なされたのです。それで、ファリサイ派の人々は、若者をその証人に立てようとしたのです。

 ですが、若者は答えます。「あの方は預言者です。」(17節)

 奇跡は、古くから預言者の働きとして認められていました。それで、若者は、イエスさまは預言者です、と答えたのです。第二の告白です。

【第三の告白】

 こうして、若者は、さらにユダヤ人の指導者の前に両親と共に引き出され、審問を受けることになったのです。何としてでも、イエスさまをとらえる口実が欲しいことから、遠巻きに攻めて行こうとするのです。両親を審問することによって、二重の意味で、イエスさまを追い詰めることになります。

 1つは、息子が中途失明であるということになれば、イエスさまの奇跡的な業によらずとも、何らかの原因で視力が回復したと宣言できるからです。そうしますと、イエスさまの人気はがた落ちになってしまいます。

 2つめは、息子が生まれつき目が見えないと証言すれば、イエスさまは安息日の掟を破ったことを証明できることになります。

いずれにしても、両親を問いただすことは、イエスさまを窮地に追いやることに

なります。

 ですが、両親は、自ら答えず、息子に答えさせるのです。すると、息子は、イエスという名の預言者が何をしてくださったのかを証言するのです。

 「あの方が神のもとからこられたのでなければ、何もおできにならなかったはずで

  す。」(33節)

 思いもかけない証言でした。イエスという方がわたしの目を癒してくださったのだから、「神のもとから来られた」御方と告白せざるを得なかったのです。この証言は、イエスさまを、わたしのメシア、つまりわたしを救ってくださったキリストですと告白したことを意味したのです。この告白をなす者は、律法の掟によって、会堂追放と定められていました。会堂追放は、礼拝から締め出されるだけではなく、その町から追放されることを意味したのです(22節)。

 本来でしたら、目が見えるようになったことを祭司が認めれば、物乞いをやめて、親許に帰ることができたのです。普通の生活に戻ることができたのです。ですが、若者の証言は、全ての交わりから絶たれる結果をもたらしたのです。ようやく立ち上がり、希望が開けてきたと思った矢先、どん底に落とされてしまったのです。その悲しみから若者の純粋さ、心の清さが伝わってきます。

 第三の告白は、世間からは全く遠ざけられてしまう結果となったことを意味しましたが、限りなくイエスさまに近づいたことを証ししているのです。

【第四の告白】

 神さまは若者を見捨てられることはありませんでした。若者のことは、すぐにイエスさまの耳に届きます。すると、イエスさまは、すぐに行動に移され、若者に再び出会うのです。そして、問われます。

 「あなたは人の子を信じるか。」(35節)

 若者は「信じたいのです」(36節)と答えます。

 イエスさまは力強く宣言なさるのです(37節)。

 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

 若者は「主よ。信じます」(38節)と告白してひざまずくのです。「人の子」は、キリストと同じ意味で用いられています。「主」つまり神であり、神の御子

であるとの告白です。「ひざまずく」は、礼拝の形を表していますので、その信仰告白が真実であることを伝えているのです。

 若者は、イエスさまに2度出会いました。この出会いによって、はっきりと自分の信仰を告白したのです。目が見えなかった時に出会ったイエスさまは、その御名前だけの存在でした。ですが、2度目の出会いによって、イエスさまこそ、神の御子キリストです、と告白したのです。

 第四の告白は、わたしたち教会の信仰告白でもあるのです。

【信じて救われること】

 この物語は、最後に、ファリサイ派の人々の信仰について厳しい裁きを下します。 

 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたた

  ちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(41節)

 見ているものが違うのですね。

 若者は、自分が体験したことを通してイエスさまを預言者と信じ、問い詰められ

ても真実から目を背けることなく、人の子、つまり神さまから遣わされた神の御子キリストであると告白するに至るのです。失うものが何もなかったから真実が見えたのでしょうか。そうではなく、依り頼む心の拠り所を見い出したのです。

 ですが、ファリサイ派の人々は違います。最初からイエスさまを捕えようと画策するだけでした。真実から目をそむけたというよりも、自分たちで決めたことにこそ真実があり正しさがあると確信していたのです。ですから、それに反することは皆、真実から外れ、正しい道から外れていると思い込んのです。ファリサイ派の人々にとって、イエスさまは、自分たちの理解の枠の中に納まり切れませんでしたので、イエスさまを消し去る以外に、自分たちの正しさを証明する術がなかったのです。その姿勢を生み出した心にこそ罪が支配していたのです。

 見える、ということは、これほど喜ばしいことはないはずです。ですが、見ようとして見るのではなく、自分の思いに適ったことだけしか見ようとしないことにこそ、罪の力が働くのです。ファリサイ派の人々の罪が重いのは、この世の力をもって人を裁くからです。若者をこの世の全ての交わりから追放できる力を持っていることにこそ、罪の働く現実の恐ろしさが秘められているのです。

 イエスさまは、復活されたあと、弟子のひとりであるトマスにこのように告げられました。ヨハネによる福音書20章28節です。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

人の心は弱いものですから、その目で確かめ、その手に触れないと、納得できないものです。それでも、信仰によって罪が赦され、救いにあずかるのです。

若者は、2度イエスさまに出会いました。最初の出会いで、イエスさまの御名を信じました。2度目の出会いを通して信仰を告白したのです。イエスさまを見ないで信じる者となる証がここにはあります。若者の信仰は、イエスさまの御言葉に聞き従ったことから始まり、信じたことを告白して、癒しから救いへと変えられたのです。

 「主よ、信じます。」この信仰告白にこそ、イエスさまにしっかりと結び付き、救いの喜びにあふれる信仰が告白されています。昔も今も、そしてこれからも変わることのない、わたしたち教会の信仰告白であり、信仰の源です。

 神さまの御業は目を癒されたこと以上に、この信仰告白へと導かれたことに証しされています。

 イエスさまの御言葉に導かれ、「信じたい」から「主よ、信じます」との信仰をご一緒に告白し、救いの確かさを感謝してまいりましょう。

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