説教『十戒について』牧師 若月健悟
2021年1月24日(日)教会研修日・降誕節第5主日礼拝説教要旨
《聖書》出エジプト記20章1~17節
【人生の道しるべ】
出エジプト記は、イスラエルの民のエジプト大脱出記です。主なる神さまとモーセによって全てが進められる物語です。
脱出に成功したイスラエルの民は、荒れ野で、神さまから進むべき道筋を示されます。約束されたカナンの地に入るまでの長い旅、土地取得後の生活の道筋が告げられるのです。人はそのままでは、力の強い人が弱い人を支配し、弱い人は強い人に服従するようになっていきます。それでは、エジプトの奴隷時代と変わらない現実を再現することになります。新しい生活のために約束事を取り決め、その約束事に従って秩序ある生活をするのです。約束事の精神に依り頼んで、神さまと人、人と人、人と自然との関係を具体的に築き上げることになるのです。その約束事の源が主なる神さまの御心であり、神さまから与えられた契約が「十戒」なのです。石の板2枚に刻まれた「十戒」は、人の拠り所です。全ての関係の源なのです。ですから、石のように固く、永遠なるものでなければなりません。
「十戒」は、主なる神さまとイスラエルの民との間に交わされる約束の源です。常に、イスラエルの民が神さまの御心を思い起こして歩み続け、過ちがあれば悔い改めて立ち帰り続ける〝道しるべ〟となるのです。まさに十戒こそ〝人生の道しるべ〟となるのです。
【2分される十戒の構成】
では、十戒はどのような神さまの御心を伝え、道しるべとなっているのでしょうか。
十戒に依り頼むことは〝信仰〟に始まります。信仰を過ちなく導くのです。行き着くべき将来の在り方が示されているからです。つまり十戒は、信仰をもって将来に向かって歩み続ける道しるべなのです。
十戒には「前文」があります。この前文が、決定的な意味を持っています。全てはここから始まり、ここに立ち帰ることになるからです。
1~2節が前文です。
「神はこれらすべての言葉を告げられた。わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
前文は、イスラエルの民を救い出したのは〝このわたしである〟と告げます。これを〝恵みの先行〟といいます。神さまの恵み、愛が常に先立ち、源となっていることを意味します。神さまの恵み、その愛にお応えすることが〝信仰〟です。無償で与えられた救いという恵み、その源は、ただ神さまの愛にあるのです。イスラエルの民は、無償で与えられた恵みと愛にお応えして、ただ御独りの神さまを〝主〟と信じて従い続けるのです。このことが全ての信仰と生活の出発点となるのです。
イスラエルの民の信仰は、神さまの救いの恵みにお応えすることから始まるのですが、十戒は、その応答の仕方を2つのことから明らかにするのです。
1.神さまを礼拝する生活
第一戒から第四戒までです。これが主文です。
2.人の日常の生活
第五戒から第十戒までです。主文に従属するのです。
【神さまを礼拝する生活】
では、第一戒から第四戒までの主文である神さまを礼拝する生活とは、どのような内容なのでしょうか。
第一戒「ただ御独りの神さまへの信仰」:エジプト4百年の奴隷生活は、人であるエジプトの王を神と崇めさせ、人の心を支配しました。その支配から解放したのは、ただ御独りの神さまの愛と救いなのです。
第二戒「偶像禁止」:目に見える巨大な神々の像は、人の心を長い間支配しました。ですが、神さまが共にいて示される熱情が人の心を変えるのです。
第三戒「みだりに主の名を唱えることの禁止」:「みだりに唱える」とは、行いを伴わない口先だけの信仰のことです。口先だけの信仰が空しい現実であることを、皆が良く感じ取っていたのです。
第四戒「安息日礼拝厳守」:週に一度巡ってくる7日目の安息日は、人も家畜も土地も休息し、ただ御独りの神さまに心も体も委ねる礼拝の日となるのです。それは、感謝と賛美の祝福の日であるからです。
こうして最初の4つの戒めを通して、ただ御独りの神さまのみを主と信じる信仰が、人の心を1つに結び合うのです。
【人の日常の生活】
では、それに続く6つの戒めはどのような内容なのでしょうか。
第五戒「父母の敬愛」:親と子の関係は、神さまと人との基本的な関係の写しです。親子の正しい関係が信仰の証しですから、その関係の崩壊は信仰を弱めたり、失わせることになるのです。
第六戒「殺害禁止」:自分の命を含め、人が人・家畜・自然の命を奪い取ることは、生活の基となる関係の破壊を意味します。取り返しがつかないからです。神さまの御支配を拒むことは厳禁です。
第七戒「姦淫禁止」:結婚の秩序は、家族・家庭生活の基本です。それは神の家族の写しであるからです。欲望の赴くままに生きることは、信頼関係を崩壊させ、多くの犠牲を強いることになるのです。
第八戒「窃盗禁止」:人の所有物を盗み、だまし取ることは、怒りと復讐心をかき立て、平和な関係を喪失させます。その結果、盗んだ人の心にも跳ね返り、安らぎを失わせることになるのです。
第九戒「偽証禁止」:真実を偽りと証言することほど恐ろしい現実はありません。1つの偽りが多重の偽りを産み、両者が依って立つ真実を損ない分断が生じます。その結果、両者が危機に直面するのです。
第十戒「自制心」:隣人の家を欲することは貪欲を意味します。それを戒めることは、自制心を養うことにあります。信仰が行いを伴ってこそ証しとなるように、自制心は誠実さと寛容を育むのです。
6つの戒めは、神さまへの信仰に基づき、人と人との信頼関係を築くことの大切さを明らかにするのです。〝誰も見ていないから大丈夫〟と思う心には、歯止めがかかりません。歯止めを失った心は、信頼関係を失い、ついには、自分自身をも信頼しきれずに、自分を失うことへと突き進むのです。
【祝福と呪い】
神さまは、十戒がいつも正しく、生活の中で実行されることの困難さを良くご存じでした。最初の人アダム以来、人の心に芽生えた自立心や欲望は、それ自体は罪ではないのですが、正しい道しるべを持たないと、神と人との関係に始まる全てのつながりを失わせるのです。その歯止めとして、十戒に〝祝福と呪い〟が定められたのです。それを具体的に条文として実効性を持たせたのが、出エジプト記21章~40章です。さらに神さまは、出エジプト記に続く、レビ記、民数記、申命記を通して、克明に〝祝福と呪い〟の現実を告げるのです。
「祝福」は、5つのことを具体的に示します。
①土地取得 ②健康長寿 ③子孫繁栄 ④財産継承 ⑤平和
良いことばかりです。
それに対して「呪い」は、裁きのことですから厳しいものです。細部にわたって刑罰を定めています。裁きの最たるものは、命をもって償うことにあります。このことは、十戒が全て命にかかわっていることを証ししているのです。
【福音信仰】
〝祝福と呪い〟は交わることのない現実ですから、その間に橋渡しが必要です。そうでないと、人は余りの厳格さに息つくことさえできなくなるからです。それで神さまは、〝祝福と呪い〟の橋渡しをなさる御方をわたしたちに遣わされたのです。神の御子イエスさまです。
イエスさまが、律法学者の質問に答えて、律法の源を明らかにし、立ち帰るように告げられたことを思い起こします。マルコによる福音書12章28~34節です。
「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛すること」
申命記6章4~5節を用いて告げられたイエスさまの御言葉こそ、モーセの十戒の源であり、神さまの無償の愛と救いの証しです。
そして、神さまへの愛、隣人への愛の現実は、イエスさまの十字架によって証しされたのです。愛の証しはこれに尽きるのです。父である神さまの罪人への愛と救いの御計画、その御計画を実現された御子イエスさまの十字架、それを今もわたしたちに思い起こさせてくださる聖霊の御業にこそ、わたしたちの福音信仰は依って立つのです。十戒がそうであるように、福音信仰は、今もそしてこれからも、御子の主キリストとしての復活によって永遠に生きる希望へとつなぐ〝人生の道しるべ〟なのです。信じてご一緒に歩んでまいりましょう。
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