説教『命の御言葉』牧師 若月健悟

2020年3月15日(日)受難節第3主日礼拝説教要旨

聖書 ヨハネによる福音書6章60~71節

【はじめに】

 ヨハネによる福音書を読んでいますと、その時代の中で、苦しみ悶えながら、信仰に生きる厳しさと真実に出会う思いがします。

 イエスさまの十字架と復活を信じて、イエスさまを主と告白することは、信仰にのみ依り頼んで生きることを意味します。ですが、どうでしょうか。人の心は、いつも純真無垢に、永遠の命を信じて生きることを許さないのです。毎日の生活の中で、厳しい現実に出会い、それどころではないと思えることが繰り返し起こるからです。もっと身近にあって、もっと直接助けになることを、どうしても優先し、求めたくなるのです。

 教会は、いつもその時代の中で、厳しい現実に出会い、信仰の確かさ、信仰の真実を告白することが求められました。教会を離れていく人々の突きつける現実が、教会をさらに、信仰の源である、生き生きと脈打つ命の御言葉にしっかりと立ち続けることを求めさせ、また求め続けたのです。

 では、今朝与えられた御言葉は、どのようなことをわたしたちに語り掛け、問うているのでしょうか。それにどのように答えているのでしょうか。

【弟子たちの離反】

 イエスさまは、大勢の群衆に復活の命についてお話しになりました。その内容は、イエスさま御自身が命のパンであることを証しすることでした。命のパンは、毎日の生活で食べるパンのことではなかったのです。命のパンは、天の神さまからいただいた神の御子イエスさまという御方御自身を指し示したのです。

 それを具体的に教会の言葉として表しますと、パンと杯になります。つまり、聖餐という見える形をとります。パンと杯に現された十字架のイエスさまを〝食べる〟という表現になるのです。

 ですが、天からいただいたパンを食べることは理解できましたが、〝そのパンが神の御子イエスさま御自身であり、その御方を食べる〟ということに納得できず、御言葉につまずいたのです。群衆と共に多くのお弟子さんもつまずいたのです。とても理解できず、信じられなかったからです。

 お弟子さんたちの多くが吐き捨ているように告げたのです。60節です。

 「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

 確かにそうだろうと思います。とても聞くにたえないというのが、その場に居合わせた人々の実感であったろうと思います。どう考えても、イエスさまの御言葉のままでは理解できないことでした。

 今わたしたちは、この時のイエスさまの御言葉が、現在執り行われている聖餐式において告げられるパンと杯であると信じるからこそ、落ち着いて理解し、納得しているのです。皆がイエスさまを受け入れ信じるには、十分な時間が必要なのです。

【霊と命の御言葉】

 イエスさまは、その状況を察知されますと、すぐにお答えになりました。62節の御言葉です。

 「それでは、人の子がもといたところに上(のぼ)るのを見るならば・・・・・。」

 イエスさまは、御自分を「人の子」といいました。ここでは、一人の人間として生まれた神の独り子という意味で用いています。ですから、「もといたところ」は天の御国ということを告げたことが分かります。

 問題は、「上る」という御言葉の意味です。この1語を通して、イエスさまは3つのことを告げらておられるのです。

 ①十字架に上げられること、つまり十字架の死の意味です。

 ②死人のうちから上げられること、つまり復活の命の意味です。

 ③天に上げられること、つまり昇天の意味です。

 ここまで読み解くことは、その場ではとても難しく、それだけに多くのお弟子さんたちにとって、とても信じ難いことであったことは良く分かるのです。

 ですから、イエスさまはこの3つの意味を理解し、受け入れることが、人の知恵ではなく、聖霊の働きであり、聖霊は信じて受け入れる者を必ず残されると約束されたのです。イエスさまの御許から誰が離れ、誰が残るのかは、天の父である神さまがお決めになることですから、それはお任せするほかはないのです(65節)。

 天の父がお決めになり、残った者に約束されたことが、命の御言葉です。命の御言葉は、天の父から与えられる御言葉ですから、それは一時のことではなく、永遠の命の御言葉として与えられるのです。聖霊がそれを実現されるのです。ですから、約束された者だけが受け取ることになるのです。

 イエスさまの十字架と復活と昇天を通して、イエスさまを神の御子キリストと信じる信仰は、聖霊によって与えられる永遠の命の御言葉として約束された者の心に宿るのです。

【残りの者】

 群衆は皆、イエスさまの御許から離れ去りました。その中にはイエスさまの多くのお弟子さんたちもいました。どのような気持ちで、信仰を捨てたのでしょうか。もちろん、広い意味での、神さまを信じるという信仰は持ち続けたのです。イエスさまから離れ去ったお弟子さんたちが捨てた信仰は、イエスさまを神の御子キリストと信じる信仰のことです。つまり、イエスさまの御許を離れ去り、生まれながらの信仰に戻ったのです。この場合、ユダヤ人のユダヤ教徒に戻ったという意味です。ですから、律法の掟に従って、自分の正しさを求めて生きる、前のままの信仰に戻ったことになります。

 ですが、イエスさまの御許に残ったお弟子さんたちがいました。「十二人の弟子たち」(67節)です。十二人のお弟子さんの心境も穏やかではなかったことと思います。目の前から去って行く仲間を見るのは本当に辛いものがあります。確かに教会は、長い歴史の中で、分裂を繰り返してきました。わたしたちが、全て理性的に合理的な考えで物事を判断しても、分裂は避けられないことです。自分の考えに執着してしまい、相手の言葉が心に響かなくなってしまうからです。人の心は、それほどかたくなであり、突き詰めていくと、分かれざるを得ないところまで行ってしまうのです。ましてや、感情も入り込みますから、ことはもっと複雑になります。感情が入るから関係がややっこしくなる面があります。ですが、もう一方で、感情が入るからこそ、相手に寛容になり、赦すことができることも確かなことです。

 このように、理性と感情を駆使しながら、何とかお互いに受け入れ合おうと努めることが、クリスチャンの強みではないかと思うのです。

 イエスさまは、十二人のお弟子さんに「あなたがたも離れていきたいか」(67節)とその決心を確かめるのです。残った十二人こそ、聖霊の導きを通して、イエスさまの御許にとどまることができたのですが、その決心こそ自分で決めたことではなく、聖霊の導きによるものと信じ切れるかどうかを尋ねられたのです。自分で決めたことであるならば、御言葉につまずき、離れざるを得ない時が来るからです。

【最初の信仰告白】

 十二人のお弟子さんの中で、最初にイエスさまの弟子となったシモン・ペトロがその信仰を告白するのです。68、69節の御言葉です。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 この中で、3つの御言葉がペトロの信仰を明らかにしています。「主」、「永遠の命の言葉」、「神の聖者」という3つの御言葉です。この御言葉は、1つのことを意味するのです。つまり、「あなたこそ主なる神です」との信仰告白です。

 イエスさまを主なる神であると信じさせていただけるからこそ、イエスさまが告げる御言葉は永遠に生き続ける御言葉として受け取ることができるのです。永遠の命の御言葉であるからこそ、全てを捨て、全てを委ねてイエスさまに聞き従うのです。その決心をなさせる源こそ、聖霊の導きなのです。天の父である神さまがそのように取り計らってくださったのです。だからこそ、ペトロをはじめ、十二人のお弟子さんたちは、多くのお弟子さんたちが離れ去った後にも、イエスさまの御許にとどまり、その信仰を告白することが許されたのです。

【裏切る弟子】

 ですが、選ばれたはずの十二人のお弟子さんの中の一人がイエスさまを裏切ることになると、イエスさまは予告されるのです。裏切りは、引き渡すという意味になることから、十字架へと引き渡すことを意味することになります。イスカリオテのユダがその弟子です。イエスさまを裏切ることによって十字架へと引き渡すのです。

 ユダは、ただイエスさまを十字架へと引き渡すために、十二人のお弟子さんの一人として残されたのです。「悪魔」(70節)と呼ばれています。悪魔は、「サタン」とも呼ばれて、本来その人の信仰を試み、その信仰が確かであるかどうかを見極める働きを担ったのです。イスカリオテのユダは、十二人のお弟子さんの一人として、もっとも厳しく辛い役割を担ったことになります。

 ただ悲しいことに、ユダは、その役割が、神さまの御計画であることに最後まで気が付くことはありませんでした。ユダ個人の思いが優先したのです。イエスさまの御言葉の前に一歩先に出て、イエスさまの思いとは反対に、自分が望む方向へと導こうとしたのです。

 のちに、ペトロもイエスさまの十字架を前に見捨てて逃げることになりますが、ペトロがユダと決定的に異なっていたことが1つあります。それは、ペトロは自ら犯した罪の深さを知って悔い改めたことです。イエスさまの十字架の御前に悔い改めたのです。ペトロが十二人のお弟子さんの中で、最初の信仰告白者となったのは、聖霊の導きによるものでした。このことから分かるように、悔い改めもまた聖霊の導きによるものでした。

【永遠の命の御言葉】

 イエスさまの御言葉を信じることは、神さまの御言葉として信じることです。神さまは永遠の御方ですから、告げられた御言葉も永遠です。それだからこそ、永遠の御言葉が、生ける御言葉として永遠に生き続けるのです。御言葉こそ生ける命なのです。

 わたしたちは、十字架、復活そして昇天されたイエスさまを主と信じ、イエスさまの御言葉こそ生ける永遠の命の御言葉であると告白するのです。その信仰告白こそ、聖霊の導きであると信じるからです。イエスさまは告げられます。

 「父のお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない。」

 聖霊の導きこそ、父である神さまが御許しになられたことです。わたしたちは聖霊に導かれて、天に召される日まで、イエスさまを主と告白し、十字架と復活の永遠の命の御言葉に依り頼んで生きるのです。信じて悔い改め、告白して救いにあずかってまいりましょう。

5回の閲覧

Call

牧師携帯

: 090-4703-0950 

教会電話&FAX

: 0297-47-0207

Contact

moriyakyoukai

@jcom.zaq.ne.jp

Address

茨城県守谷市薬師台7-17-20

© 2023 by moriyachurch
Proudly created with
Wix.com
 

日本キリスト教団 守谷教会

守谷教会は統一教会、ものみの塔、モルモン教等とは一切関係ございません。