説教『御言葉の勝利』牧師 若月健悟

2020年5月17日(日)復活節第6主日礼拝説教要旨

《聖書》ヨハネによる福音書16章25~33節

【はじめに】

 先週14日(木)に、茨城県は緊急事態宣言解除がなされましたが、県では感染拡大防止のため、今月いっぱい自粛要請をしています。わたしたち教会は、これまで通り、日曜日朝の礼拝と木曜日の聖書を学び祈る会を継続しています。その目的はただひとつです。詩編102編19節の御言葉の通り、神さまの栄光を賛美するためです。神の御子イエスさまの十字架と復活によって罪人は救われ、永遠の命を約束されました。その結果、今ここで、神さまと共に生きることが赦されるのです。この真実によって神さまの栄光を賛美するのです。

 ですが、世に生きる限り、わたしたちには苦しみがまとわりついています。罪から解除されても、全てが喜びと感謝に満たされているわけではありません。生きる限り担わなければならない苦しみがあります。だからこそ、その苦しみを命ある限り担い通して生き続けたいのです。その苦しみを担わせてくださる拠り所が、聖書の御言葉です。週の初めの礼拝を通して、繰り返し御言葉に立ち帰るのです。御子イエスさまの執り成しを受けて、生きる希望と勇気をいただきながら、その源である神さまに栄光を帰すのです。

【列王記下12章の学びから】

 先週木曜日の聖書を学び祈る会では、列王記下12章から「ユダの王ヨアシュ」を学びました。紀元前8百年前後の王さまです。7歳で王になり、40年間王位にありました。イスラエルが南北2つの王国に分かれていた時代のことです。

 ヨアシュは、7歳にして王になりましたが、南ユダは、バアルというフェニキアの神を中心とする偶像礼拝が中心でした。歴代の王たちが偶像礼拝に依り頼んでいたからです。それを改革する手立てがなかったのです。ようやく、そのチャンスが訪れたのは、ヨアシュが30歳の時です。ヨアシュを生れた時から養育し、王に就けたのは、エルサレム神殿に仕える祭司ヨヤダです。ヨアシュ王と祭司ヨヤダは、偶像礼拝を一掃し、ただ御独りの神、主を礼拝する神殿礼拝を回復する改革を断行したのです。

 偶像礼拝の持つ力の正体は何でしょうか。それは、お金の魅力です。ソロモンが建てたエルサレム神殿は、百数十年の間、修理がなされずに荒れ放題でした。神殿に仕える祭司たちは、神殿献金や奉納物をことごとく自分の懐に入れていたのです。神殿献金は神殿の修理のために蓄えられるはずでしたが、長い間、それは実現しませんでした。それを本来の姿に改めるため、改革を断行したのです。

改革の目的の1つは、祭司の取り分を奉納物と少しの献金に限定し、神殿献金は神殿修理のために用いることです。もう1つは、神殿から全ての偶像を撤去し、ただ御独りの神、主を礼拝することです。改革の断行により、神殿修理は終わり、真実の礼拝が回復したのです。

 ですが、主なる神さまは、このような南ユダ王国に裁きをくだされたのです。なぜでしょうか。それは、南ユダの各地にある聖所で行われている偶像礼拝を取り除くことができなかったためです。その裁きは、北の方に勢力をもっていたアラムの国、現在のシリアですが、アラムの王ハザエルによってなされました。南ユダの宮殿と神殿から全ての財宝が奪い取られ、ついには家臣の謀反によってヨアシュ王は悲惨な最期を遂げたのです。

実は、アラムには南ユダを攻撃すべき事情があったのです。アラムの国の更に北の方にアッシリアという国が台頭してきまして、その勢力がアラムの国へと伸びてきたのです。アラムの王ハザエルは、北のアッシリアと南のイスラエルの2つの王国に挟まれる形となるため、神殿修理に全力で取り組み、戦力が弱まった南ユダを攻撃して、南からの恐れを取り除いたのです。

 ヨアシュ王にくだされた厳しい結末に示された、神さまの御心は、一体どこにあったのでしょうか。それは、偶像礼拝の中心がお金の力にあり、その力が人の心を支配し、本来の礼拝から人の心を奪い取る現実にあることです。御言葉は、今もその真実を伝えているのです。

 では、御言葉に依り頼むことは、今何を伝えているのでしょうか。

【十字架と告白】

 イエスさまは、御自身が担う十字架の死をたとえ話を用いないで、包み隠すことなくあからさまに告げられたのです。

 「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

                                 (28節)

 「わたしは父のもとから出て、世に来た」との御言葉は、ヨハネによる福音書1章14節の御言葉と同じ意味です。

 「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 つまり、クリスマスのことです。「言」の真実は、目には見えない神の御子が「肉」の姿をとって、見える人となられたことです。神の独り子としてのイエスさまの誕生は、十字架により罪人を救い、復活によって永遠の命に生きることを実現し、証しするためです。罪人が救われ、父である神さまと共に永遠に生きるためなのです。

 では、永遠の命は、どのようにして罪人の命となるのでしょうか。

それが、「今、世を去って、父のもとに行く」との御言葉に証しされているのです。神の御子であるイエスさまがただ御独り、天に昇られることによって、イエスさまの父である神さまが、わたしたちの父アッバとなってくださるのです。天において、イエスさまが執り成してくださることによって初めて、罪人が神さまを父アッバと呼び、愛をもって交わってくださることを知るのです。

 これは、この世のいかなる力をもってしても実現できないことを証ししています。ただイエスさまを神の独り子キリストと信じる信仰にってのみ現実となるのです。

 お弟子さんたちは、イエスさまの御言葉が何を伝えようとしているのか知り、告白します。

 「これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

                                (30節)

 お弟子さんたちは、イエスさまと一緒に歩み、聞き従ってきた御言葉の真実を知ったのです。知ることによって、ようやく信仰の力の源にたどり着き、信じたことを言葉をもって告白したのです。信仰の力の源は、父なる神さまと罪人を一つに結ばれる神の独り子イエスさまの執り成しにあるのです。それが真実であるゆえに、今もそしてこらからも変わることはないのです。

【御言葉の勝利】

 イエスさまは、十字架が迫ってくることを強く感じ取られた時から、お弟子さんたちが出会う苦難の始まりを告げられるのです。苦しみは、信仰がこの世のいかなる力とも相いれないゆえに生じる戦いです。列王記下12章の「ユダの王ヨアシュ」の物語からもそれを教えられます。神殿の修理とただ御独りの主を神とする信仰の回復に全力を注ぎ、苦難に耐えたのです。それでも、神さまの御心に適わなかった厳しい現実があるのです。その信仰が南ユダ全土の信仰に導くことが適わなかったからです。ヨアシュの王としての使命が神殿信仰にとどまったことに悲しみの現実があったのです。

 ですが、お弟子さんたちには希望と勇気が与えられたのです。この世の力は、いつもお弟子さんたちの進むべき道に立ちふさがるのです。聖霊は、御子イエスさまの執り成しがお弟子さんの心をシャロームに満たすと証しするのです。シャロームは、父なる神さまの愛に満たされる平和と、御子イエスさまの執り成しを受ける平安です。信じるゆえに負うべき苦しみの中にこそ、シャロームの真実があるのです。父である神さまと共に在る平和、御子イエスさまの執り成しを受けている平安、聖霊は、今も御言葉をもって、その真実を証ししているのです。

 御言葉を信じる信仰は、いつもわたしたちの希望の源です。この希望の源から、苦しみの中に立ち上がる勇気を与えられるのです。苦しみの中で不安を覚え、不安の中に恐れをなし、ついには生きる望みさえ失ってしまいます。ですが、御言葉に依り頼み、御言葉を信じる信仰によって、生きる勇気を与えられるのです。イエスさまは御言葉を通して変わることのないシャロームを与えてくださるからです。

 ここに御言葉の勝利があります。

 イエスさまは、今もわたしたちに語り掛けておられます。

 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)

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