説教『御言葉の味覚』牧師 若月健悟
2021年1月17日(日)降誕節第4主日礼拝説教要旨
《聖書》エゼキエル書3章1~3節
【はじめに】
エゼキエル書の御言葉から、御言葉には味があることを教えられます。3節の御言葉です。
「主は言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」
巻物は神さまの御言葉のことですから、預言者エゼキエルが食べた御言葉の味は「蜜のように甘かった」ことになります。
それで、他にも御言葉の味を伝えている箇所があるのかどうか、調べてみました。直接伝えている御言葉が1か所見つかりました。詩編64編4節です。
「毒を含む言葉を矢としてつがえ」
「毒を含む言葉」が矢のように、人の心と体を捕えるのです。これは、弱い立場にある人への辱めであり、自尊心を打ち砕く鋭さに満ちていることを告白するのです。
新約聖書では、ヨハネの黙示録10章9節にありますが、エゼキエル書から引用された御言葉として用いています。ヨハネの黙示録は、同じ預言者として、エゼキエル書の預言の御言葉を用いることにより、時代や場所が変わっても御言葉は真実であり、永遠であることを伝えているのです。
このように限らえた御言葉から、その味覚を直接伝えている箇所は、エゼキエル書にあることが分かります。それで、預言者エゼキエルが味わった御言葉の意味を見ていきたいと思います。
【預言者の召命】
主なる神さまが預言者エゼキエルに告げられた御言葉の味覚は、預言者の召命に深く関わっています。代表的な預言者としてエゼキエルとともに、イザヤとエレミヤがいます。預言者として主なる神さまから召命を受けた時の物語がそれぞれに伝えられています。
イザヤの召命はイザヤ書6章です。主なる神さまの御使いであるセラフィムが、祭壇から火鋏(ひばさみ)で取った炭火をイザヤの口に触れるのです。すると、イザヤは罪が赦されたことを知り、神さまの呼びかけに答えます。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(8節)。この告白により、イザヤは預言者として召され、遣わされるのです。
エレミヤの場合、エレミヤ書1章です。エレミヤは預言者となることを頑なに拒むのです。ですが、神さまは次から次へと語り掛けられ、いつの間にか、エレミヤは、御言葉に圧倒され、悔い改め、御言葉を携えて語り伝える預言者として仕えることになるのです。
エゼキエルは、バビロン捕囚の地で預言者として立てられました。イザヤとエレミヤとは全く異なる現実の中で、預言者として立てられるのです。つまり、どん底を味わいながら、預言者としての働きをなすのです。イザヤのように「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と積極的に預言者として立つわけではないのです。かといって、エレミヤのように消極的にいやいやながら預言者として立つのでもないのです。ではどうなのか。ただひたすら「イスラエルの残りの民の救いのために」御言葉を告げる預言者として立つのです。
捕囚の地で希望を見出せず、心閉ざす人に、救いのビジョンを告げることは至難の業です。ですが、エゼキエルは、預言者として神さまから託された使命に立つのです。信仰を失った人、信仰を失いかけた人、信じたくても何に依り頼んでよいか分からずに苦しみ悩む人に、〝神さまの御言葉を信じて依り頼みなさい〟と語り伝えるのです。もっとも厳しい道を歩む預言者となるのです。
【エゼキエルの現実】
では、エゼキエルが神さまから示された御言葉は、どのように受け止められたのでしょうか。
それはエゼキエル書2章8~9節にあります。御言葉が巻物としてエゼキエルの目の前に置かれ、その内容が告げられるのです。
「それは哀歌と、呻(うめ)きと、嘆きの言葉であった。」
「哀歌」は苦しみの告白ですが、わたしたちはその悲惨な現実を詩編137編に見ることができます。詩編137編は「バビロンの流れのほとりに座り」という書き出しで知られている詩編です。つまり、バビロン捕囚の地で、勝利者であるバビロンの民から嘲りののしられる苦渋と苦難を伝えているのです。
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」(3節)と強いられ、「どうして歌うことができようか/主のための歌を、異教の地で」(4節)と答えるのです。このような深い嘆きの中で最後に詩編は告げるのです。
「娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前にわたしたちにした仕打ちを/お前に仕返す者/お前の幼子をとらえて岩にたたきつける者は。」(8~9節)
何とも激しく、切なくなるほどの呻きの独白です。この苦渋と苦難を、エゼキエルも味わっていたのです。それだけに、エゼキエルは、預言者として立たされる使命を深く味わうことになったのです。
それは〝救いの希望〟を「イスラエルの残りの民」にビジョンとして告げるためなのです。エゼキエルは、神さまの救いの御計画を「哀歌と、呻きと、嘆きの言葉」を記した巻物を通して聞いたのです。
こうして、預言者として立つ心備えの御言葉が与えられたのです。
【御言葉の味覚】
主なる神さまはエゼキエルにお告げになるのです。
「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に
語りなさい。」(1節)
エゼキエルが口を開くと、神さまはエゼキエルの口に御言葉を食べさせ、告げられるのです。3節です。
「人の子よ。わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。」
すると、エゼキエルは御言葉の味を感じ取るのです。
「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口には甘かった。」
バビロンの川のほとりで絶望の淵に立つイスラエルの残りの民は、「哀歌(苦しみ)、呻き、嘆き」をいやというほど味わいました。塩(しょ)っぱく苦い味です。ですが、エゼキエルには「蜜のように口には甘かった」のです。この甘さこそ、預言者に委ねられた〝救い〟という希望のビジョンなのです。
現実は、どこまでも「哀歌(苦しみ)、呻き、嘆き」が支配しているのです。ですが、それを承知しながら口を開き、その御言葉を飲み込みますと、蜜のように甘く、今まで見ることができなかった〝救い〟という希望のビジョンを、確かに見るのです。苦味を残したままなのですが、その苦味は蜜のように甘く感じさせるほど、御言葉の深い味わいが、エゼキエルの心を奮い立たせ、〝救い〟という希望のビジョンへと心の目を開かせるのです。
【御言葉の甘味】
これから歩まなければならない預言者の道は、苦渋と苦難に満ちていました。そのことを、エゼキエルは捕囚の民の1人として誰よりもよく知っていたのです。バビロンの川のほとりにうずくまる仲間の1人ですから、その現実は身に染みていたのです。それだけに、主なる神さまの召しを受け、預言者として委ねられた神さまの御言葉を語り伝えずにはおられないのです。
主なる神さまの御言葉は、絶望の淵にうずくまる仲間に、〝救い〟という希望のビジョンを与え、信仰の輝きに心を満たすのです。エゼキエル自身が味わった「蜜のような甘み」を、御言葉を通して仲間も一緒に味わって欲しいのです。捕囚から解放され、愛する国へ帰還する日が必ずやってくることを伝えずにはおられないのです。
エゼキエルが告げたように、愛する国への帰還が実現したのは、それから半世紀が経ったころです。長い時を経ました。エゼキエルは預言者として御言葉の真実を味わい、必ず実現することを告げましたが、それを体験することはありませんでした。ただ信じたのです。
わたしたちは、預言者エゼキエルが味わった御言葉の真実を御子イエスさまの十字架と復活に、今、見るのです。主なる神さまの御心は、〝罪人の救い〟にあったからです。それを実現されたのは、御子イエスさまただ御独りであることを、わたしたちは、今、信じて告白するのです。
御言葉は、塩っぱく苦い味がする時があります。それでも、信じて口に入れるとき、甘く、元気づけ、希望へと導くのです。神さまの御力であり、聖霊の導きがあるからです。
御言葉を通して、御子イエスさまの十字架と復活の真実を深く味わってまいりましょう。御言葉が口に甘く感じられる人は、何と幸いなことでしょう。
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