説教『父・子・聖霊』牧師 若月健悟
最終更新: 6日前
2021年1月10日(日)降誕節第3主日礼拝説教要旨
《聖書》マタイによる福音書3章13~17節
【ヨルダン川にて】
ヨルダン川は、パレスチナ最大の川で、〝ヨルダン〟には「すみやかに下る流れ」という意味があります。このことから分かりますように、ガリラヤ湖から死海へと下る流れは、標高差がかなりあるために、かなり早いものでした。イエスさまの時代、川幅が広く、深かったため、川を渡るためには浅瀬を見つけて渡らなければなりませんでした。旧約聖書の時代、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がヨルダン川を渡るために、川が奇跡的にせき止められ、乾いた川底を無事に渡ったとあります(ヨシュア記3章)。それほど、川の勢いがあったのです。現在のヨルダン川は、開発が進み、生活用水としてヨルダン川の水が多量に用いられているために、水量は年々減少していますので、昔をしのぶことはできなくなっているようです。
イエスさまが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたヨルダン川の場所は、流れが穏やかで、浅瀬であったと考えられています。洗礼者ヨハネの下に多くの人が集まり、洗礼が執り行われている光景が思い浮かびます。イエスさまも、多くの人の中で洗礼を受けられました。ヨルダン川が「すみやかに下る流れ」の通り、イエスさまの洗礼によって、これから始まろうとしている全ての人の罪が洗い流され、心が清められて、晴れ晴れとした笑顔で、神さまを賛美する歌声が響き渡っている光景が見えるようです。
では、イエスさまの洗礼は、わたしたちにどのようなことを伝えているのでしょうか。
【預言の実現】
洗礼者ヨハネが執り行った洗礼には、〝悔い改め〟という意味がとても強くあります。そのため、イエスさま御自身が罪を悔い改めるために洗礼をお受けになったのではないか、と考える人もいます。ですが、それが真実なのだろうかと思うのです。
では、イエスさまが洗礼を受けられることの背景にはどのようなことがあるのでしょうか。それは預言が実現するためなのです。
①イザヤ書7章14節
〝おとめが身ごもって男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ぶ。〟
②イザヤ書11章1~2節
〝ダビデの末に主の霊がとどまる。〟
③イザヤ書42章1節
〝主の僕(しもべ)であり、主が支える者の上に主の霊が置かれる。〟
④イザヤ書53章
〝主の僕は屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように黙して歩み、罪人が正しい者とされる
ために、人の罪を自ら負った。〟
預言者イザヤの御言葉は、罪人の救いを一貫して預言しています。罪人が主なる神さまと共に生きるために、主の僕である救い主キリストが人の罪を負い、死の道を歩まれた、という預言に全てがかかっているのです。
イエスさまの洗礼は、イザヤの預言により告げられた〝主の霊を受け、罪人の罪を自ら負われる方〟の始まりと終わりを証ししているのです。始まりは洗礼を通して主の霊がイエスさまにとどまることです。終りはイエスさまの十字架に至ることです。
【主の霊】
イエスさまが、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた目的の1つは、主の霊を受け、主なる神さまから委ねられた使命が真実であることを深く心に留めることにありました。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことで
す。」(15節)
イエスさまがヨハネに告げた御言葉は、ヨハネがイエスさまの申し出を断ろうとしたことに対して、主なる神さまの御心が何であるのかを明らかにしたのです。主なる神さまの御心は罪人の救いにあります。その救いの御計画が、イエスさまに委ねられたのです。
大勢の人が自らの罪を悔い、洗礼を受ける中で、イエスさまは、人の罪の中に身を置かれたのです。そのように行動することによって、主なる神さまの救いの御計画の始まりを御自身から証しされるのです。
その結果、何が起こったのでしょうか。
「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に
降って来るのをご覧になった。」(16節)
閉ざされた天がイエスさまに向かって開いた光景を見たのは、イエスさまのほかには洗礼者ヨハネだけだったかもしれません。そうであれば、律法の掟から考えますと、ヨハネだけでは真実の証人にはなれないのです。とすれば、大切なことは何でしょうか。それは、主なる神さま御自身がその証人になられたことです。それによって、この光景は天と地がイエスさまによって1つに結ばれたことを証しすることになるのです。その証しが「神の霊が鳩のよう御自分の上に降って来る」ことなのです。
本来、「神の霊」は人の目には見ることのできません。見えないはずものがイエスさまの目に見えることの証しが、〝鳩のように降って来る〟光景にあります。この光景はビジョンですから、夢のようなものです。見た人だけが納得できる現実です。イエスさまが目撃された「神の霊」つまり聖霊の降臨は、天と地をつなぐ唯一の存在が、イエスさま御自身であることです。このことによって、主なる神さまが父であり、イエスさまはその独り子であることを証しするのです。従って、聖霊がその証人となるのです。
【天の声】
イエスさまは、主の霊の降臨を通して、御自身が父である神の独り子であることを得心され、委ねられた使命を自覚されるのです。それを具体的に確かなものとするのが、天の声である父なる神さまの呼び掛けなのです。イエスさまは、天の声により心を定めるのです。
「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」
(17節)
イエスさまが聞かれた天の声は、洗礼者ヨハネだけがイエスさまと一緒に聞いたのかもしれませんが、この御声の真実が、何を指し示しているのかをヨハネが知る由はありませんでした。
天の声は、詩編2編7節の御言葉が実現されたことを意味します。詩編の御言葉は、イエスさまの神の独り子としての歩みが十字架の道であることを告げるのです。その十字架こそが、その先に約束された復活の命の始まりとなるからです。愛されるゆえの苦しみの始まりです。御子の苦しみだけが、神さまの御心に適うために、十字架の道へと押し出す宣言となるのです。
イエスさまの十字架だけが、天の神さまと地なる人を1つに結ぶのです。イエスさまの十字架だけが、人と人との心を1つに結ぶのです。罪赦されることの真実はイエスさまの十字架にのみあるのです。
【父・子・聖霊】
わたしたちは、イエスさまの洗礼を通して、旧約聖書に預言された、主の僕の苦しみ、つまり十字架が神の御子イエスさま御独りに証しされたことをみてまいりました。それはただ、罪深いわたしたちの罪を御自身の命をもって贖い赦し、天にある神さまと共に永遠に生きるためにあるのです。
そのために、イエスさまの洗礼は、天の父なる神さまが罪人の救いを御計画され、それを実現するために愛する独り子イエスさまが十字架へと歩み始められることを証しするのです。聖霊は、父と子を結び合い、罪人の救いが永遠に変わることのない真実であることを確かなものとするのです。
イエスさまの洗礼は、父と子と聖霊が三位一体の神であることの最初の証しです。父・子・聖霊がわたしたちに約束された高価な恵みは、御子イエスさまの十字架の死と復活の命によって約束されたわたしたちの永遠の命であり、救いなのです。この命と救いを脅かし、奪い去る力は、もはやないのです。だからこそ、イエスさまの洗礼は、わたしたちの救いの始まりであり、父・子・聖霊の三位一体の神の最初の証しとなるのです。
父・子・聖霊の三位一体の神さまの愛の御心と御業は、今も昔も、そしてこれからも変わることのない真実です。洗礼を受け、清められた者にふさわしく、わたしたちの心からの感謝と賛美の歌声が途絶えることがありませんように、心と知恵と力を一つにしてご一緒に歩み続けてまいりましょう。
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