説教『真実の告白』牧師 若月健悟

最終更新: 7月22日

2020年7月19日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

《聖書》使徒言行録24章10~21節

【はじめに】

 パウロ先生が、エフェソをたってエルサレムに来たのは、諸教会が献げた献金をエルサレム教会へ届けるためでした。ところが、エルサレムでは、ユダヤ人たちがパウロ先生を殺害しようとしたために、ローマ軍の兵士に守られて、一端、監禁されることになりました。

 調べてみますと、パウロ先生はユダヤ人ではありましたが、ローマの市民権をもっていることが分かり、エルサレムから海辺の町カイサリアへと移されたのです。当時、パレスチナを監督する総督が常住したのはカイサリアの町でした。総督フェリクスは、ローマへ送るかどうか、裁判で決めることになったのです。この裁判を機会に、パウロ先生は、ローマの市民権を持つ者として、ローマでの裁判を受けることを主張し、これが認められて、ローマへと送られることになりました。ローマへの旅が、パウロ先生の最後の旅となるのです。

 裁判は2年にも及びました。その理由が、24章26節で明らかにされています。総督フェリクスが、パウロ先生に賄賂を求めたからです。このようなことがあって、パウロ先生は軟禁状態にはありましたが、その分、伝道ができたのです。

【パウロ先生の弁明】

 総督フェリクスの前で、パウロ先生が弁明したのは、ただ1つのことです。それは「死者の復活」についてです。もちろん、「死者」というのは、イエスさまのことです。十字架の上で最期を遂げられたイエスさまこそ、神の御子キリストであることを明らかにしたのです。

 そのためパウロ先生は、2つのことを弁明するのです。

 1.「ナザレ人の分派」と呼ばれているが、聖書に基づき、正統な信仰に立っているこ

   と。

 2.復活の希望を持っていること。

【弁明その1「聖書に基づく正統な信仰の継承者」】

 パウロ先生が非難された理由の1つに、「分派」活動を行う異端者であるとの訴えがあります。

 24章5節「ナザレ人の分派」と呼ばれていまして、エルサレムを混乱に陥れる異端者であるとの告発がなされているのです。

 「ナザレ人」はイエスさまのことで、4つの福音書ではイエスさまを「ナザレのイエス」と呼んでいます。苗字がないために、名を呼ぶ時には、出身地を表わす地名を付けるのが習わしでした。「ナザレのイエス」といえば、ガリラヤ地方にある小さな村ナザレの出身者であることが分かったのです。ナザレの村では、父親の名を付けて、「ヨセフの子イエス」と呼ばれるのですが、イエスさまの場合、父親が早く亡くなっているためか、「マリアの息子」(マルコ福音書6章3節)と呼ばれていました。

 イエスさまが始めた伝道活動から弟子たちが誕生し、教会へと発展していきました。その活動が目覚ましい発展を遂げて行くことから、ユダヤ当局は、厳しく非難したのです。誤った信仰を宣伝して人々を惑わし、異邦人と接触しながら清めを行わず、汚れたまま神殿に入って神殿を汚す集団とみなしたのです。そのため「ナザレ人の分派」として異端視されたのです。パウロ先生は、その非難に対して、聖書に基づく信仰をもって清めを行い、活動していると弁明するのです。

 パウロ先生の時代、今日のような新約聖書は誕生していませんでした。それで、聖書と言えば旧約聖書を指していました。イエスさまの直弟子が記憶しているイエスさまの御言葉と救いの御業が、口伝えで語り伝えられていた時代です。それで、パウロ先生は、「神の御言葉の書」である旧約聖書に依って立つことを弁明するのです。

 旧約聖書はその時代、聖書と呼ばれ、「モーセの律法と預言者の書と詩編」としてその内容を伝えています。使徒言行録を書いたのは、ルカによる福音書の著者ルカですが、その福音書24章44~45節で聖書について明らかにしています。パウロ先生は、聖書を「律法と預言者の書」と簡潔に呼び、弁明は聖書に基づいてなされていると、その正当性を根拠づけるのです。

 教会の信仰は、決して道から外れた異端の教えに基づくものではないことを明言し、「先祖の神を礼拝し」(14節)ていることにおいて同じ神さまを礼拝する信者であると強調するのです。イエスさまも用いられた伝統的な言い方をしますと、「先祖の神」は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として、ただ御独りの神さまを主と崇め礼拝することです。一点の曇りもない信仰の証しなのです。

【弁明その2「復活の希望を持っていること」】

 もう1つは、「復活の希望」に生きる信仰であることです。パウロ先生らしい言い方をするならば、「十字架と復活」というべきところです。ですがこの弁明では、ユダヤ教のファリサイ派の信仰に基づくことを明らかにするために、あえて「復活の希望」を強調するのです。ファリサイ派の人々の中には律法学者が多いことから、パウロ先生は、かつてファリサイ派の律法学者として活動していた経験から「復活の希望」を明らかにして、誤りのない信仰であることを弁明するのです。

 復活信仰は、度重なる戦争の体験から次第に具体的な信仰の言葉になって行きました。紀元前2世紀ごろのことです。真の神さまを信じて死んだあと、信仰者は神の国で永遠の命にあずかる復活の希望に生きるのです。復活信仰は神さまの賜物なのです。ファリサイ派の人々はこの復活信仰に生きるのです。ですから、パウロ先生も「ナザレ人の分派」と呼ばれても、その信仰は正統な復活信仰に基づくもので、決して誤った信仰の道を歩んでいる訳ではないと主張するのです。

 パウロ先生が15節で告げた御言葉に、その特徴が見いだせます。復活は「正しい者も正しくない者もやがて復活する希望を、神に対して抱いています」という弁明です。

 聖書が告げる全ての人の復活は、「正しい人と正しくない人」に分けるための復活です。その根拠はダニエル書12章2節の御言葉です。復活後の裁きにおいて、「正しい人」には永遠の命が与えられ、「正しくない人」は永遠の滅びに定められると告げるのです。この復活信仰は、ヨハネによる福音書5章28~29節、ヨハネの黙示録20章12~15節に継承されることになります。つまり、教会に継承されたのです。

 ですが、パウロ先生の場合、ローマの信徒への手紙10章13節において、信仰による万人の救いを伝えていることから、復活信仰は、全ての人の救いを伝えていることが分かるのです。フェリクス総督の前では、それを明確には伝えていませんが、その思いは、復活信仰が聖書に基き、誤りのない信仰の道であると明言していることです。正しい人にも正しくない人にも復活信仰は救いの源なのです。

【真実の告白】

 フェリクス総督の前で行ったパウロ先生の弁明を通して、復活信仰こそ、聖書の御言葉に基づく、誤りのない信仰であり、正しい道であることを教えられるのです。復活は、イエスさまの十字架なくしては、実現さなかったことです。イエスさまの十字架と復活を通して、初めて救いの道が開かれたからです。この救いこそ全ての罪人の救いとして実現されたのです。

 正しい人の救いは、その人の正しさによるのではないのです。その信仰が人の目に正しいと認められても、人は罪を犯さずには生きられないのです。だからこそ、正しい人は、自らの罪を自覚し、悔い改めの信仰に立つ人なのです。

 真の神さまを知らず、信仰にさえ背を向ける人にも救いの道は開かれているのです。イエスさまの十字架と復活を信じる信仰が、道を外れて生きる人にも救いの道を開くのです。自らの罪に気づかされ、悔い改めて信仰を告白し、救いにあずかるのです。

 救いは正しい人にも正しくない人にも真実です。聖書の御言葉は神さまの変わることのない永遠の救いと命の約束だからです。この約束に生きる信仰の真実を告白して生きるのです。

 イエスさまの十字架と復活は、わたしたち教会の依って立つ信仰の源です。この真実を告白するわたしたち教会は、今も、そしてこれからも変わることなく、この救いの真実を告白しながら歩み続けるのです。この信仰の真実を告白し、希望として歩み続けてまいりましょう。

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